有明海を埋め立てる構想は昔からあった

地図を見て有明海の入り口せき止めて埋め立てたら土地が増えて人類みなハッピーじゃない?って考える人は昔からいたようです。それほど日本には平地が少なかったということでしょう。
佐賀出身の高田保馬という戦前の経済学者はこの計画を熱心に進めようとしたらしい。実際にはアメリカに提案されて、それもアリっちゃアリか?と計画が持ち上がったそう。
有明海地域総合開発計画
いったいどのような計画だったのか見ていきましょう。有明海をすべて埋めてる計画の名前は有明海地域総合開発計画といいます。
有明海総合開発計画についてという昔の論文があるのでそれを基にして記載します。
この計画は戦後間もない1948年、GHQに有明海の高潮被害などの陳情に行ったときに、提案されたそうです。たぶんアメリカ人の技術者はこういったのでしょう。「有明海の入り口をせき止めて埋め立ててしまえば高潮被害など無くなるよ。」確かにアメリカに比べて狭い日本だから、地図上で見て埋め立てるのもたやすいと思ったのかもしれません。
その後1952年に福岡県・熊本・佐賀・長崎が参加して有明海総合開発協議会が発足されました。あまりにも大規模な計画ですが、地理的に離れている大分県がなぜか後で参加したことからも、九州全土を巻き込んだ巨大プロジェクトだったことがわかります。
この計画の目標は大規模干拓による農業地の開発、有明海の海中に眠る石炭の採掘、淡水化した有明海を農業用の大きなため池へ、砂鉄の採取、観光地化とされました。
開発の目標
- 有明海を締切り水位を低下安定させ高潮と洪水の防除
- 豊富な用水と用地による有明臨海工業地帯の造成
- 近代的農業地帯の造成
- 淡水化による水資源の開発,筑後・ 佐賀平野の用水改良, 既存工業への用水補給
- 海底 の原料炭と砂鉄の開発
- 観光地帯の形成

上の図を見ると3本の道路で有明海を横断することさえ計画されています。どこで海をせき止めるかはいろいろな調査が行われ、水深などの調査が行わわれていました。

有明海の締め切りはひたすら石を沈める方法。幅は400mほどでしょうか。平均の水深は45mだとか。非常に大変な工事が計画されていました。現代世界でも数えるほどしかこの深さを埋め立てた例はないみたいでです。
金額はいくらで実現できるのか?というのが気になるけど、当時の金額で2800億円と試算されていました。
1954年には干拓先進国のオランダから技師が招かれ、「地盤が柔らかく難しいが、私の国なら国費を惜しまずきっとやり遂げる」と語ったそうです。
計画は中止されたのだが。。。
有明海全部を埋められる計画は15年間膨大な金額をかけて調査が行われましたが、400ページほどの報告書を提出して計画の中止が決められました。その理由はいくつもあります。
- 米がすでに過剰生産だった
- ノリの産業が大きく育っていた
- 石炭の需要が減った
- 防災という意義もうやむやになった
- 何より膨大な投資金額に比べて、リターンが少ない
しかし、有明海という世界自然遺産級の干潟や独特の生態系の価値などはほとんど考慮されず、当時はまったく評価されていなかったことが伺えます。当時は自然保護という観点はほとんど無かったのです。ちなみに、日本の自然保護運動は山口県の秋吉台をアメリカ軍の演習地から外すという運動が最初だったそうですよ。昭和30年代のことです。
計画は中止されたのですが、長崎だけ残った。


有明海地域総合開発計画は15年で消えたのですが、長崎県の諫早干拓大干拓構想だけは独自に残って複数回の計画の中止や復活を経て実行されるに至りました。それでも当初の経過と比べると埋め立て地は1/4ほどです。元々の有明海を埋め立てる計画が無茶すぎた。。。
有明海地域総合開発計画はあまりのも巨大すぎてバカげた構想だったと思います。普通に考えて実行は無理です。しかし、長崎県だけは当初の計画通り、米が余っているのに水田、よくわからない防災効果、調整池を水源地化して飲料水(あんな汚い水を飲もうとしたとは・・・放水しただけでアサリが死んでるのに)にするなどの目標を立てて、頭の痛くなるような経緯を経て実行されたのです。
有明海そのものを埋め立てる計画がそもそもなかったら諫早湾干拓も昔ながらの小規模な干拓だったかもしれません。つまり、今はだれもが忘れている有明海地域総合開発計画の影響は今も残っているということかもしれないという事です。